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シアワセをつなぐ仕事

急性期は看護の力が問われる。
その確信を得たから、
私は今、看護に情熱を注ぐ。

村瀬美直子/豊田厚生病院  ICU(集中治療室)・集中ケア認定看護師


 

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豊田厚生病院のホームページで、「看護部門」を開く。
ずらりと並ぶ認定看護師のトップに登場するのが、
集中ケア認定看護師の一期生、村瀬美直子だ。
まだ「認定看護師」という言葉が認知されていなかった時代に、
専門教育課程を受けて資格を取得。
職場に戻ってからは、同院のICUの立ち上げに参加するとともに、
看護師のキャリア支援の道筋を切り拓いた。

 

 

 


一人のパイオニア認定看護師が切り拓いた、
ICU(集中治療室)看護の礎と
看護師のキャリア支援体制。


 

 

 

「急性期に看護はない」ドクターの一言が心のどこかに引っ掛かっていた。

01_ToyotaKosei_Linked2014-豊田厚生病院の村瀬美直子看護師が、加茂病院(現・豊田厚生病院)に入職したのは平成5年。加茂看護専門学校を卒業し、そのまま自然な流れで同院へ就職を決めた。最初の配属は、循環器内科病棟。そこで5年余り、循環器疾患を患った急性期患者のケアにあたる。勤勉な上司にも恵まれ、居心地のいい環境だった。そんななかで、村瀬の心にもやもやと引っ掛かっていたものがあった。それは、ある医師の「急性期に看護はない」という言葉である。
 「当時はまだ、急性期の看護師に求められるのは、治療のサポートばかりで、医師たちの看護への理解も浅く、<急性期に看護はない>と言い放つ先生方もいらっしゃいました。ただ私は、人工呼吸器を装着して言葉も発することのできない患者さんにこそ、看護が必要なんだと思っていました。でも当時の私には、それを論理的に説明することができなくて…」。10_ToyotaKosei_Linked2014
 そんなとき、村瀬はたまたま手にした看護雑誌で、神奈川県立看護教育大学校にICU(集中治療室)・CCU(冠疾患集中治療室)の看護について学べる教育課程があることを知る。「急性期にこそ看護が必要なことを証明できるかもしれない」。そう思って受験した村瀬は見事、合格。彼女は一旦、同院を退職し、単身、神奈川県へ。半年間の学生生活を送った。

 

 

夜更けまで仲間と議論した看護理論の解釈。

26_ToyotaKosei_Linked2014神奈川県立看護教育大学校は、村瀬にとって「苦しかったけれどすごく楽しい」日々だった。そうそうたる教授陣、意識の高い仲間たち。とくに講義の時間を費やしたのは、<看護理論>。夜中になるまで、看護理論の解釈をめぐり議論することもしばしばだった。「看護の本質を徹底的に学びました。看護とは何か。看護をすることで患者さんにどういう影響を与えるのか。知識をどんどん吸収するなかで、それまで抱いていた心のもやもやがすーっと晴れていったんです」と村瀬はにっこり笑う。
 もやもやが晴れた、とは、具体的にどういうことか。「私たち看護師はどんなときでも、<そこに生活している患者さんがいる>という考えをベースにします。それは急性期病棟でも同じです。ひげそり、爪切りなどは患者さんの生活援助ですし、点滴の管理や尿量の確認は患者さんの回復を促すうえで重要な意味があります。人工呼吸器につながれている人だからこそ、看護が必要とされているし、看護師でないとできないことがある。そんな看護師の役割と使命を再確認できました」。
 スタート当初は、自分より知識・経験ともに豊富な人たちに囲まれ、劣等感を感じていた村瀬だったが、気がつけば、教育課程を主席で卒業していた。卒業と同時に、集中ケア認定看護師(当時は、重症集中ケア認定看護師と呼んだ)の受験資格を得て、日本看護協会の認定審査を受けて、平成11年、一期生として合格。村瀬は豊田厚生病院に復職し、循環器内科病棟に戻った。

 

 

認定看護師としてICUの立ち上げに貢献する。

Plus1顔写真ここで、村瀬が認定看護師の資格をとった時代背景に触れておきたい。そもそも認定看護師の資格制度は、「特定の看護分野において、高度な看護実践のできるスペシャリストを社会に送り出そう」と、日本看護協会が創設したもので、平成7年に発足した。具体的に看護師の認定が始まったのは、平成9年。最初に、<救急看護>と<皮膚・排泄ケア>の2分野で認定看護師が誕生。続く平成11年に<集中ケア>と<緩和ケア>の認定看護師がそれぞれ誕生した。
 当時は、認定看護師の知名度は低く、医療者はもちろん、看護師自身もその存在を知らない人が大勢いた。まさに認定看護師の黎明期だっただけに、復職した村瀬に対する周囲の反応も、「どこかの学校で、何かを学んで帰ってきたらしい」という程度だった。しかし、村瀬は自分自身のモチベーションを高く維持し、日々、学校で学んだ看護理念に基づく実践に邁進した。
95_ToyotaKosei_Linked2014 村瀬の存在感が際立ち始めたのは、それからしばらく経ってからだった。加茂病院が急性期病院として著しい成長を始め、高度な看護知識・技能を備えた村瀬が重用されるようになったのだ。まず、循環器内科において心臓カテーテル検査の検査件数が飛躍的に増加。心臓血管外科を求める声が高まり、平成14年、循環器内科と心臓血管外科が一体となって治療を行う循環器センターが開設された。翌年、ICUが開設され、その立ち上げに村瀬が参加。生命の危機状態にある患者に対し、どのようにアプローチすべきか。村瀬が本領を発揮し、集中ケア看護の土台を築いた。「当院が第三次救急医療機関に向かって走り始めたことが、私の活動を広げる追い風になりましたね」と、村瀬は振り返る。
 その言葉通り、同院は救急医療の充実に力を注ぎ、平成20年の新築移転を機に、念願だった救命救急センターを開設、国の指定を受けた。ここでは救急車4台を同時に受け入れ可能な救急外来をはじめ、ICU6床、HCU(高度治療室)24床を整備し、屋上にはヘリポートも完備。年間の救急搬送数は7000件を超え、ドクターヘリや防災ヘリの飛来も年間30回前後と、西三河北部の第三次救急医療機関として大きな存在感を放っている。

 

 

次々と育つ若い認定看護師たち。そのキャリア支援の道を切り拓いた。

31_ToyotaKosei_Linked2014村瀬が第一号となり、切り拓いた認定看護師の道。今では同院の認定看護師は10名に増え、さらに4名が資格取得をめざし、学校に通っている(平成26年4月末現在)。認定看護師をめざす人への支援制度も整えられている。「認定看護師をもっと増やそう、と上層部の方々に思ってもらえたのはすごくうれしかったですね。病院にとって、私の存在がプラスに作用していることの表れだと受け止めています」と、村瀬は話す。
 村瀬は、同院の新築移転時、HCUの開設に尽力して看護を軌道に乗せた後、再び、ICUに戻り、看護係長を務めている。次々と重症患者が運ばれるICUでの勤務は、精神的なストレスも大きい。ときに看護の意味を見失い、悩んでいる後輩を見つけると、村瀬は自分の歩いてきた道を重ね合わせ、こんな話をするという。
 「ここでは患者さんから、直接お礼を言われることはまずないよね。でも、生命の危機を乗り越えた患者さんに、どんな介入ができたか振り返れば、自分の看護を評価できると思う。患者さんが亡くなる場合でも、最期に家族と過ごせるように配慮するなど、看護師でないとできない使命があると思う。私はそんなふうに考えて、ずっと続けているよ」。
 急性期だからこそ、看護は必要なんだ。そんな急性期看護の本質を、村瀬は後輩一人ひとりにしっかり伝えている。


 

 

column

コラム

●豊田厚生病院・看護部では今、村瀬に続く認定看護師を数多く育成。認定看護師の力を、病院全体の看護の質の向上や、看護師教育に役立てている。新人教育では、救急蘇生法、酸素療法、インシュリン注射と血糖測定、栄養管理と褥瘡発生予防など専門的な看護技術を、認定看護師たちが中心となって丁寧に指導。新人看護師が自信をもって看護実践できるようにサポートしている。

●また同院では、中堅クラス以降の看護師教育にも力を注いでいる。レベルに応じて院内外での研修機会を豊富に用意するとともに、「キャリア支援室」に専従の看護師を配置。看護師個々のキャリア設計についてきめ細かく相談にのっている。看護師は生涯にわたって学び続ける職業である。その観点に立ち、看護師一人ひとりを大切に育て、個々の自己実現を強力に支援している。

 

backstage

バックステージ

●現在、豊田厚生病院では認定看護師を目指す人に、身分保障や経済的なバックアップなどの支援制度を整えている。だが、そうした環境が整っていなかった時代に一人、その道をいち早く発見し、歩き出した村瀬看護師の勇気にまず敬意を表したい。

●村瀬は病院第一号の認定看護師として、豊田厚生病院に新たな風を吹き込んだことは間違いない。一つは、ICU・CCU看護の基礎を作ったこと。もう一つは、看護師のキャリア支援体制を根づかせたことだ。病院という巨大な組織を動かすことは、決して容易なことではない。だが、ときに、たった一人の「思い」が、組織や風土に影響を与え、プラスのエネルギーを生み出すことを、今回の取材を通じて実感した。パイオニア認定看護師が掴み取った急性期看護の理論と技術は、これからも同院の看護部に脈々と受け継がれていくだろう。

 

 


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