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病院を知ろう

気吹、ふたたび。
学び続ける病院であれ。

 

 

増子記念病院



求むるは成功にあらずして正義なり。
患者とその家族、職員とその家族の幸せのために、
すべては存在する。

main

中部地区の肝臓病を専門とする名立たる医師たちにとって、「増子和郎」という名は、忘れることができないという。
そして、腎臓病に関わる高名な医師たちにとって、「増子記念病院」という存在は、自らの故郷という。
その増子記念病院は今、自らの原点に回帰し、最良の医療への挑戦をスタートさせている。

 

 

 

 

 

プライドと
誇りと志。

 Plus顔写真1 その語り口調はソフトであった。医師をはじめ、300名の職員を前に、檄を飛ばすわけでも、熱弁を振るうわけでもない。しかし、言葉の一つひとつは、確信に満ちていた。 
 平成26年4月6日に開かれた第39回増子記念病院全体会議。この会議は、職員全員による経営参画主義の証として、昭和51年から続けられている。今回のテーマは、「増子記念病院が求めるもの」。同院の母体である特定医療法人 衆済会 理事長 両角國男医師は語りかける。
 原点回帰。両角が何より職員に伝えたかったことだ。すなわち、増子イズムの伝承による患者のための医療のさらなる徹底である。
 増子イズムとは、衆済会の基本理念<「求むるは成功にあらずして正義なり」という視点に立ち、すべては「患者とその家族、職員とその家族の幸せのために」あること>。このイズムは、創設以来、脈々と受け継がれてきたものであり、そこから、肝疾患・腎疾患患者と家族からの揺るぎない信頼、肝臓病と腎臓病の専門病院としての実績と評価、チーム医療のなかIMG_1302で熟成された職員の資質の良さとして、病院の財産となり蓄積されてきた。この事実を、病院の支柱として私たち自身が再認識し、増子記念病院の職員であることへのプライドと誇りを持とう。そして、志の高い医療を、専門職のチーム医療として行い続けよう。私たちにはできるはずだ――。
 理事長就任直後、職員への意識改革を求める、両角からの強いメッセージであった。

 

 

増子イズムへの
回帰。

IMG_1264 理事長に就任早々、両角は、なぜここまでのメッセージを伝えることができるのか。その理由を述べる前に、両角自身について紹介しよう。
 両角國男医師は、腎臓内科が専門である。日本腎臓学会の法人評議員・指導医・認定専門医、日本移植学会の評議員などの認定資格を持ち、国内はいうまでもなく、国際的にも活動領域を広げるなど、日本を代表する腎臓病の権威である。平成26年3月までは名古屋第二赤十字病院の副院長であり、また、国立大学、市立大学の臨床教授を務めていた。
 両角は語る。「私は、大学医学部を卒業後、増子記念病院で研修を受けたんです。理事長・院長職を務められた増子和郎先生、山崎親雄先生、伊藤 晃先生に出会い、医師としての姿勢、生き方に大きな感銘を受けました。3人の先生をはじめ、この病院の先人たちは、世界に通用する専門性の高い優れた臨床と研究の実践を追い求め、その成果をさらに高め続けていた。そしてその一つひとつが、患者さんと家IMG_1402族の幸せに繋がっていったのです。そうした風土が、ここ十年ばかり弱まっていました。医療情勢という外的要因はあります。でもそれを理由にするのではなく、増子記念病院は、本来の増子記念病院でなくてはいけない。この病院に関わった医師は、きっと誰もが考えることです。私はいわばその象徴。原点に戻り、気吹を再び! もちろん、理念だけではなく、具体的な再生計画はあります。但し、当院の本当の財産は、<人>です。増子イズムで育ってきた医療人として、全力で医療を行っているかを、職員一人ひとりが自らに問う。そのうえで、自らの行動目標を決めることが大切と考えています」。

 

 

臨床・研究・教育が
原点。

Plus顔写真2 増子記念病院は、その前身である増子医院の開設時から、創立者の増子六郎医師が、医院の門柱に「増子研究所」という看板を掲げるほど、研究と教育に力を入れていた。息子の増子和郎医師は、肝臓病を専門とし、米国留学時に肝臓病の世界的権威ハンス・ポッパー教授の知己のもと、世界的レベルの肝臓学者となっていった。和郎医師が昭和39年に帰国後、増子病院は肝臓病の専門病院として発展。出身大学である名古屋大学医学部第三内科(当時)の臨床研修病院的な位置づけとなり、彼の下には肝臓病の若手医師らが集まってきた。
 現在の増子記念病院 院長 黒川 剛医師(肝臓外科)もその一人である。「最初は医学部の助手(現・助教)時代に来たのですが、びっくりしたのは研究活動の多さですね。肝臓で有名な病院ですから、患者さんがたくさん集まる。その治療でのデータをもとに、医師が本当に学んでいました。その後、私は、外科部長として改めて当院に赴任したのですが、そのときには手術環境を整備し、肝移植以外の手術は大学病院並に実施して、外科医たちの教育に力を入れIMG_1378ましたね」。そうした経緯のなかで、黒川は日本肝胆膵外科学会高度技能指導医、日本消化器外科指導医などの認定を取得。私立大学病院での肝臓移植の立ち上げに関与、また、中部地区で最初に腹腔鏡下での肝切除を行うなど、外科医としての実績を積み重ね、平成23年4月から増子記念病院の院長職にある。
 一方、腎臓病への取り組みは、昭和48年。医療の可能性拡大と社会的意義を認め、透析診療を開始した。この領域でも前述のとおり、腎臓病を極めたい医師らが集まり、学びを深めていった。

 

 

学び続ける
病院であること。

IMG_1324IMG_1248 今、増子記念病院は、腎臓内科の両角と肝臓外科の黒川という、極めて専門性の高い二巨頭体制を得ている。今後はどのような展開を図るのだろうか。
 腎臓病治療の再生を図る両角から聞こう。「当院は黎明期の透析医療を牽引した病院です。その功績は多大なものです。ただ、透析医療は代替医療。私は、腎臓病自体を<治す><悪くしない>という考えで、これまで臨床と研究を重ねてきました。透析依存ではなく、今後はこれを当院の基準にします。具体的には腎移植を含め、ありとあらゆる治療を展開することになる。肝心なのは、病理診断です。私の能力を治療と医師教育に投入し、本当の意味での腎臓病医による、最先端の腎診断治療センター化を図ります。そうなると診療圏も広域になり、当院の機能役割も拡大すると考えます」。
 一方、肝臓病治療の強化を考える黒川はこう語る。「肝移植以外の肝臓病の手術は、最高水準のものを提供できます。医師教育も充分にできる。課題として考えると、肝臓以外の消化器内科をもう少し強くし、コモンディジーズ(頻回に発症する病気)への対応をより広げたいですね。そうなれば、特化する肝臓病でも、それ以外の臓器においても、地域のさまざまな医療機関との連携がもっと深まります」。
 こうした二人が考えるキーワードは何だろう。異口同音に答えが返ってきた。「原点回帰。学び続ける病院であることです」。
 医師教育のなかで、ともすると初期臨床研修が注目される。しかし、この病院が果たしてきたのは、プロをプロにすること。臨床の最前線を担う医師たちを、より高めていく教育である。そして、医師たちもまた、同院に引きつけられていく。マグネットホスピタルとして、さらなる磨きをかけようとする増子記念病院である。

 

 


 

column

コラム

●増子記念病院には、60万本にも上る血清が保存されている。これは増子和郎医師のころから集められた貴重な財産の一つ。

●この存在が物語るのは、同院の臨床・研究・教育にかける思いの深さと時間の長さ。その血清を活用し、さまざまな研究をして論文を出し続けてきた歴史と、大学病院にも負けないという気概がある。

●それほどまでに、増子和郎医師という、いわば個人の存在が大きな病院でありながら、同院は、特定医療法人である。これは、医療の普及、向上、社会福祉への貢献、公益の増進に著しく寄与する一方、設立者、役員等、社員またはこれらの親族等に対し、特別の利益を与えない医療法人である。

●増子家は、増子記念病院を誕生させた。しかし、私財を増すのではなく、本物の臨床を、研究をと、医療への真摯なありようを貫き通した。

 

backstage

バックステージ

●二次医療圏(市町村単位)を対象とする専門病院は、存在する。だが、増子記念病院は、そこを突き抜け、大学病院のように三次医療圏(都道府県単位)の特殊疾患に対応する病院である。それは、地域のなかで医療を完結させるために、大きな変化を遂げようとする今日の医療の流れにおいて、少し特異な存在かもしれない。

●「その一方で…」と黒川院長は語る。「当院の医師たちは、内科医として、外科医として、全人的に患者さんを診ることができる総合性を有します。そうしたいわば医療ソースを持ちながら、三次医療圏だけに目線を向けるだけで、果たしてよいのかと考えます。二次医療圏にあっては、総合医療的にプライマリケアに貢献する。その可能性を見つめていきたいと思います」。

●専門性と総合性。それを融合した、専門病院の一つのロールモデルとしての増子記念病院に、今後も注目していきたい。

 


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