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シアワセをつなぐ仕事

特別じゃなくてもいい。
『普通』の存在を大切にする環境が、
看護師を輝かせる。

中川美葉/半田市立半田病院3A病棟(小児科・泌尿器科・歯科口腔外科)


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日本看護協会は、東日本大震災にあたり被災地に、第1班として、計20名の看護師を派遣した。この20名のうちの6名が半田市立半田病院の所属。20年のキャリアを持つ中川美葉看護師もその1人だった。現地へ行くまでは、どこか人ごとの世界ですらあった災害支援。そこで一体彼女は何を見て、何をしてきたのだろうか?

 

 

 


  普通の看護師たちでも被災地でできることがある。そう信じて、もがき続けた数日間。


 

右も左も分からない。
でも、何ができるか考え行き着いたのは、被災地での訪問看護だった。

27-0067 中川看護師が東日本大震災の災害支援のため、気仙沼市に派遣されたのは平成23年3月21日のことだった。まさに日本看護協会災害支援ナース第1班だった。第1班は合計20名集められたが、そのうちの6名が半田病院からの派遣だった。半田病院からはこの後の派遣も含めると、計20名の看護師を派遣した。
 中川たち第1班は、東京からバスで気仙沼に向かった。夜7時、気仙沼市役所に到着し、そこからさらにバスで数人ごとに避難所に分散配置された。バスのなかで災害支援のコーディネーターから言われたのは、「自分が健康であること」と、「被災者を傷つけるようなことを言わない」ということだけだった。
 中川を含む3名が配置されたのは、避難所となっている階上中学校だった。そこでは派遣の医師団が被災者の治療・救護のためにすでに動いており、薬も支援物資としてちゃんと届いていた。自衛隊も常駐して食糧や水も行き届き、避難してきた人々が暮らせる環境は整っていた。
 そんななかで、「まず私たちに何ができるかを考えるところから始めました」と中川は回想する。中川たちが思いついたのは、避難所に来られないで疾病や傷などに苦しみながら自宅で待機している人のもとへ、自ら訪問看護に出向くということだった。とは言うものの、自分たちで勝手に家を訪ね歩くわけにもいかず、土地勘もなければ、移動手段もなかった。その時、協力の手を差し伸べてくれたのが自治会長だった。奥さまが行方不明だという自身の状況をおいてまで、中川たちに手を貸してくれたのだ。自治会長に一緒に回ってもらえたことで、被災者から警戒されることもなかった。巡回の際には、車で送り迎えまでしてくれるなど、中川たちの活動を精力的に支援してくれた。その協力もあったからこそ、被災者たちの訪問看護は実現した。
 自宅に残っている被災者を回り、健康状態のチェックなどを行った後、避難所に戻り、「この家には何人いたか、食事の状況、健康状態、普段の処方薬」などを市役所職員に報告。市役所職員からは、「明日はこの地域へ行ってほしい」という指示をもらった。避難できない人々は少なくなかった。周りは瓦礫ばかりなのに一軒だけ家が無事だった家族や、家族の遺体の側から離れたくないという人、行方不明になった家族を待つ人…。中川は、そのような人々を目の当たりにしながら、看護に必死に取り組んだ。
 訪問看護と報告を繰り返した数日後、交代要員が派遣される。中川たちのその場での最後の仕事は、交代要員への申し送りだった。そこで何をしてきたのかを伝え、次にたすきをつなぐ。自分たちだけで、この仕事は終わらなかった。

想定外の誘いだった。
「行ってきたらいい」夫の言葉が、首を縦に振らせた。

27-0074 中川が日本看護協会の災害支援ナースに登録したのは、3人目の子どもを出産した年のことだった。看護師なのだから、災害支援だけはやっておかなければという気持ちと、実際に電話がきても断ることができると聞いていたこともあり、まずは軽い気持ちで登録をしてみたと言う。そのせいか、実際に行くまで災害支援の具体像は想像できず、どこか『人ごとの世界』とすら思えていた。
 東日本大震災が起こり、課長から電話があった。「災害支援に登録してるよね?行ける?」そう尋ねられた。どうしてもやりたいという程の気持ちがあったわけではなかったので、研修にも参加していなかった。そのため、「私?」という感想がまずあった。
 もともと、勤続20年目の節目で、リフレッシュ休暇を3月12日から申請し、家族と過ごす予定だった。しかし、震災はその前日に起こった。「明日から休めるんだろうか?」という思いがよぎった。家族がある身として、1人で決めるわけにはいかなかった。
 そこで、まずは夫に相談した。「家のことは気にせず任せとけ。行けるなら行ってきたらいいんじゃないか」。背中を押されて、中川は支援参加を決めた。
 「行ってみて、ただの一看護師でも、行くことでやれることはあるのかなと思った」それが災害支援に行った中川の率直な感想だった。中川は、自らを『普通の看護師』と呼ぶ。キャリアはあったが、とくに専門的な勉強をしたわけでもない。「私の被災地支援の内容自体はたいして自慢できるものではありません。でも、看護師という専門職の人間が来たことで人々に安心感を与えることができるし、寄り添ってお話を聞かせていただいたりすることもできる」。かすかではあったが、中川に手応えがあった。

何が「看護か」を考えるより、
できる事を一つひとつやることが、被災地での看護になる。

 支援に行く前は、中川自身、随分と悩みもした。普通の看護師の自分に何ができるのだろうかと。同じように支援に参加した若い看護師のなかには、「何もできなかった」と帰ってきてからも悩む者もいた。確かに中川も被災地で充分な看護ができたとは言えないかもしれない。それでも彼女は、やれることを精一杯やったという自負を持ち帰った。
 中川はこう考える。「病院で器具を使って処置をすることだけが、看護師ではない。隣で話を聞くことも看護師の役割。血圧を測るにしても、看護師の視点でアセスメントできるなど、看護師だからこそできることは少なくない。若い看護師も積極的に被災者の相談にのるなど、頑張っていたと思う」。
 中川は、行ってよかったと今でも心から思っている。被災地に行って、「看護とは何か?」と考える暇はなかった。しかし、刻々と変わっていく状況のなかで一つひとつ行動を積み重ねること、それが『看護』なんだと思えるようになっていった。 ƒVƒAƒƒZ-”¼“c0419.indd

貴重な財産となった実体験を伝えることで、地域社会の災害の記憶の風化を防ぐ。

27-0109 20名の看護師を災害支援に派遣したことは、半田病院にとって貴重な財産となるだろう。今、中川も自分が体験してきたことを、医療関係者をはじめ多くの人々に伝えようとしている。
 「まずは現場に行くこと、そして、そこで何が出来るか考えること」が大切だと彼女は訴える。「尻込みすることもあるかもしれない。でも、私みたいな普通の看護師が行っても、少しはやれることがあったんだよと伝えることが、まだ支援に手を挙げられていない看護師の背中を押すことになればいいと思う」。
 院内に急遽設けた「体験を語る会」では、災害支援に参加したスタッフがそれぞれの体験をすべて話した。すべてを話すことで、参加したスタッフの精神面にも良い影響をもたらした。同時にその体験談は、災害の記憶の風化防止にもなった。
 院内だけでなく、中川は機会を得てさまざまな人々に対して、自らの体験を語り継ぐようにしている。たとえば、中川が活動した避難所は、町議会議員が陣頭に立って所内を管理し、混乱を防いでいた。そのことを半田市役所で市議会議員に伝え、「もしものときは皆さんに采配を取って欲しい」と提言した。また、半田農業高等学校の生徒からは、避難所における栄養面について、インタビューを受けた。避難所では自衛隊が食事を作ってくれるが、容器がないからカップラーメンの容器を洗って何度も使いまわしていたこと、食事の献立など、覚えているかぎりのことを答えた。さらに、数年前から半田市内の全小学校で実施している「命の授業」でも、東日本大震災のスライドを見せながら中川は、「みんな、本当に必死に生きようとしていた」ということが子どもたちに少しでも伝わることを念じた。
 中川は、自分の胸に被災地の記憶をとどめながらも、徐々に日常に戻っていった。普通の看護師ができる被災地の看護。その経験を、明日来るかもしれない東海地方の災害に活かすために。


 

column

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●半田市立半田病院には、熟練した技術と知識を有する認定看護師が数多く在籍する。そのなかで、あえて認定看護師ではない、『普通の看護師』である中川を災害支援の派遣看護師に選んだ。その理由を中川看護師本人が語った。

●「そのあたりに普通にいるような病棟の看護師でも、一生懸命に考えて行動すれば、被災地でもできることがあるということを証明したかったのだと思います」実際、中川看護師は災害支援に行き、自分にもできることがあったという自負を持って帰ってきた。

●スーパースターは、もちろん必要だ。しかし、日本の医療を支えているのは、実は『普通の看護師』たちなのである。彼ら彼女らが存在しなければ、普段の医療も被災地での治療も成り立たない。だからこそ、それぞれが精一杯に頑張って、輝けるような環境を半田病院は用意して、彼ら彼女らを応援しているのだ。

 



backstage

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●「自分は特別じゃないから、やらない」と決めつけて、最初から行動を起こさない人がいる。その一方で、「何か自分でもできることを考える」という人がいる。前者のままでは、自分にできることすら見落としてしまう。この差は大きい。

●一度やってみれば、その経験を活かすことができる。中川看護師に、また災害支援の派遣要請があれば行くかを尋ねてみると、「今回の経験が必ずマニュアルとして活かされるとは限らないが、それでも経験は活かされると思う。だから、要請があればおそらく行く」。彼女はそう語った。また、中川看護師の場合、ご主人が背中を押してくれた。義母も育児に協力し、育児と仕事の両立を可能としてくれている。本気でやろうと思えば、周りも応えてくれるのである。



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